9M2/JI1ETU運用総括(2005年6月号CQ誌投稿の原稿)

 

一つ前のコーナーで紹介させていただきました「手記」の原稿です。

長く単調な面白くない内容で申し訳ございませんが、

よろしかったら皆様のお暇な時にでもどうぞ・・・







JI1ETU と申します。

1998年6月から2003年12月まで、仕事で西マレーシア(9M2)のペナン島に滞在して、

その間9M2/JI1ETUを運用いたしました。


この5年半の滞在の間、固定のアパートからの運用のみならず、マレーシア内のIOTAペディションなども

含め、HF~VHFで約27,000のQSOを楽しむ事が出来ました。

滞在中の無線に関する一番の思い出は、JAではまず経験出来ないHFでのワールドワイドのパイルアップな

どもありますが、やはり、9M2で1stとなった6m WACを完成出来た事ではなかったかと思います。 6mは当

局の開局Bandであり、全てのアマチュアバンドの中で、一番愛着を持ったBandです。その6mで、小さなも

のではありますが、このような記録を残す事が出来た事は、大きな喜びであります。


今回は誌上をお借りして、当局が海外での運用を経験するに至った経緯や、この6m WACの完成への裏話を

中心に、5年半滞在した9M2での足跡を紹介させていただこうと思います。

 



1.きっかけ

開局以来、海外からの無線運用は、当局の夢でありました。

しかし、当時JAと相互運用協定を結んでいる国は少なく、手続きも複雑で、加えて公私ともどもそれらの

国々に旅行・滞在出来るチャンスも無かった為、それは長い間夢でしかありませんでした。


状況が変わったのは、1997年の春。会社で東南アジア方面のプロジェクトの駐在人員を応募している事を

知り、もともと海外でのビジネスにも興味があった事に加え、このチャンスをうまく使えば以前からの夢

がかなう可能性もあるのではないかと考え、これに応募しました。(これはあくまでも、仕事での駐在で

す。Hi。)

しかし、この時出向先は9M2と決まっていた訳ではなく、むしろ会社はYBを中心に話を進め、受け入れ先

との契約寸前まで行きました。

YBはご存知の様に、外国人に対するライセンスの供与に対して非常にハードルが高い所です。おそらく、

この話がそのまま決まっていたならば、当局の海外からの無線運用の夢はついえていたものと思います。


ところが、天は当局に味方をしてくれました。

当時YBは長期政権の末期にあり、現地の治安が極度に悪化した為、この話は直前でキャンセルになりまし

た。

その後、DUなども検討にのぼりましたが、最終的に9M2への駐在が正式に決まり、出発となりました。




2.ライセンス取得

当時、9M2での日本人オペレーターは、9M2TO出雲OMがいらっしゃいました。しかし、そこは相互運用協定

の無い国。ライセンスがもらえる保証などあった訳ではありませんでした。

「大丈夫だよ」と出雲OMは言って下さいましたが、当局はまだ半信半疑でした。


ところが、申請をしてみてびっくり。確かに過程ではいろいろあったものの、必要な書類さえきっちりと

そろえれば、本当にいともあっさりと発給してくれるではないですか。

このようにして、9M2着任約3ヶ月後の1998年8月21日付で、現地のライセンスを得るに至りました。

 


3.9M2/JI1ETU運用開始

1998年と言えば、ちょうどサイクル23のCondxが上がってくる絶好の時期。

このようなタイミングで、海外からの腰を据えた運用のチャンスが得られた事は、本当に「ついていた」

としか言いようがありません。


さっそく居住していた高層アパートの管理事務所と交渉をして、22階の屋上の一部を借り受け、HFのトラ

イバンダーとロングワイヤー, 6mのF9FTなどを設営しました。


9M2は決して珍カントリーではありませんが、そこはJAから見たカリブと同様、北米やヨーロッパから見

ると決してQSOが楽ではない地域。一端これらの地域とのオープンが始まると、HFなどでは、一晩中嵐の

ようなパイルアップが鳴りやまない事は、ざらにありました。


6mに関しては、無論最初からWACなどを狙っていた訳ではありません。当時9M2ではまだ6m運用の実績があ

まり無く、ピーク時のPassが良くわからず手探りの状態でした。要は、いつ・どこから・どの位の強さの

信号が飛んで来るものなのか、誰も経験が無くほとんどわからない訳です。

幸い9M2TO出雲OMが、この時期にすでに6mでJAと交信されていましたので、最初は当局も「JAとの交信さ

え出来れば上出来」と考えていました。


ところが、そのJAは開局1ヶ月後の9月27日にあっさりと交信。翌99年4月にYB(オセアニア)。99年10月

にVQ9(アフリカ・チャゴスは東南アジアから近い為、いつも強かったです)とそれぞれ交信。ここまで

こうもあっさりくれば、確かに「欲」は出て来ます。

しかし、残るはJAにいた時でもスーパーDXであった、南北アメリカとヨーロッパ。JAと違い北米とは距離

がありますし、南米とは対蹠点伝搬のようなものはありません。また、当局のアパートからはヨーロッパ

のショートパス方向に山があり、ブロックしています。

残りの3大陸は、当局には征服不可能な、巨大な壁のようにも思われました。


サイクル23のCondxは、この1999年の秋にかけて、JAで聞いた過去のサイクルほどの勢いは無いものの、

確実にアップしてきているとは感じていました。

この時期になりますと、6mでもJA・南北アメリカ・ヨーロッパで、スーパーDXのレポートが相次ぐ様にな

って来ていました。しかし、9M2はどちらかと言うと蚊帳の外でした。

JA本土側から見ても、DU・9M6・XVまでは良くオープンしても、その奥の9M2まではなかなか開かなかった

のではなかったでしょうか。

9M2でも、VR2や沖縄の局が、アフリカ本土・ヨーロッパ・南米などと盛んに交信しているのを指をくわえ

て聞いていましたが、こちらでは全く相手局が聞こえませんでした。

また、ヨーロッパ・オーストラリア間がFBにオープンしているのに、その途上にある9M2には、両方の電

波とも落ちてきませんでした。


東南アジアのあの地域は、まさしく「6m電波の真空地帯」の様に思えたものでした。
 

 



4.苦悩のヨーロッパ

しかし、そんな中でも1999年10月、9M2TO出雲OMがヨーロッパと初めての交信を成功されたのを皮切り

に、翌11月には、クラブ局9M2JKL(クアラルンプール)から運用されていたJE1JKL中村OMも、OHその他と

交信されたとの情報が入って来ました。

しかし、やはりその頻度・信号強度・オープンの長さなどは、JAからのそれと比べると見劣りしたもので

しかありませんでした。 

当局はと申しますと、アパートのヨーロッパ方面には山がブロックしておりましたし、不思議とオープン

が平日の夕方の勤務時間帯に集中しておりましたので、どうにも対応ができず、いつも悔しい思いをして

おりました。


更にそんな中、個人コール9M2NKを運用されたJE1JKL中村OMが、南米のHKと交信された、との衝撃的なNew

sが入って来ました。

2000年の4月、時間帯は午前2時23分(ローカルタイム)との事でした。

「そんな時間帯に南米への6mのPassがあるんだ」とわかっただけでも、この事は収穫でした。

しかし、そこは駐在員とは言え、しがない会社勤めのサラリーマン。深夜のその時間帯まで起きて無線機

に向かっていては、翌日の勤務に支障が出ます。

それに、それよりも先にヨーロッパを何とかしなくてはなりません。

この南米のニュースで、当時出雲OMは、「これでキーは北米だな」と良くおっしゃられていた事を覚えて

います。


コマーシャルのQRLに追われたまま、2000年春のDXシーズンは過ぎ、6mも静かになった為、暫くヨーロッ

パの事も南米の事も忘れてHFを中心に運用していました。


2000年の秋から2001年の春にかけては、9M2では、むしろ6mのCondxは悪くなったような印象を受けまし

た。 なかなかJAさえも開かず、時たま開くヨーロッパに対しても、当局は相変わらず相性が悪くやきも

きしてした事を覚えています。

もともと、「サイクル23は、以前のサイクルと比べ大きく劣る」と言われていただけに、本当にこのまま

6mは終わってしまうのか、とも感じていました。


そして、そのまま秋のDXシーズンになり、JAを始めとする東アジア方面で、再び6mのヨーロッパ入感のレ

ポートがあがるようになって来ました。しかし、相変わらず9M2とのオープン頻度は低く、当局のフラス

トレーションもピークに達していました。当時すでに出雲OMは、数少ないビッグオープンのチャンスを確

実にものにされ、数百局のヨーロッパと交信されていました。


そんな、今サイクル9M2からのヨーロッパ初交信から2年もたった2001年11月17日(土曜日)、天はやっと

当局の味方をしてくれました。

ローカルタイム16時55分、(JST−1時間)激しい9M2特有のTV性バズノイズの中から、当局のCWのCQに応

答してきてくれたのは、OZ1LO。待ちに待ったヨーロッパでした。

結局この日はヨーロッパと11QSO。すでに9M2では出雲OMや中村OM、またJAでも多くの6mDXerが、多くのヨ

ーロッパと交信されている中、本当に遅まきながら、しかし当局にとっては大きなはずみとなった交信で

した。


後から考えてみますと、確かにヨーロッパ方面にはロケも悪く相性もなかったのですが、結局は北米・南

米と比べてオープンの頻度があった事、そしてヨーロッパ側の局数も多かった事が幸いしたようです。
 

 

 

5.一発勝負の北米

さて、これで残りは南北アメリカ大陸となりました。

しかし、この時点でも当局はまだ、6mWACを強くは意識していませんでした。

諸OMから2年遅れでやっとの思いで交信したヨーロッパ。しかも残りは、パスの存在は確認出来ていると

は言え南米。そして開くかどうかもわからない未体験ゾーンの北米。 更にコンディションは落ちて行

く。弱小局の自分にそんなチャンスはめぐってくるハズも無いと。


それでも、時は秋のDXシーズンの真っ只中でありました。JAからはF2反射で6mでも北米が交信出来るシー

ズンになっていました。 当局もJAでの開局間もない頃、6mのDXを追いかけていた時期があり、サイクル

ピーク時の秋の朝方(JST)、北米がFBにオープンした時には、バンドが下から上までWやVEの局の59+の

シグナルで埋め尽くされていた事を覚えていました。また、それはサイクルの始めよりも、ピークを若干

過ぎた頃の方がFBでした。 この事からも、もし本当に9M2から6mで北米との交信のチャンスがあるとする

ならば、この時期のJA−北米間のビッグオープンの「おこぼれの伝搬」しかない、と思っていました。

しかし、実際北米からJAを越して更に9M2まで電波が届く為には、F2で最低もう1ホップが必要です。なか

なか非現実的な望みと思われました。


それは、まだヨーロッパ陥落の余韻が残る、翌日の2001年11月18日 日曜日の朝、当局は朝からクラスタ

ーの情報を注意深くチェックしていました。

6mではすでにJAと北米のオープンが始まっており、それが段々ビッグオープンになってくる様子が見て取

れました。周波数が広がり、東日本のみならず西日本からもレポートがあがっていました。

当地9M2でも、JAがちらほら弱いながらも入感しだして来ていましたので、50.085MHzのCWでJAとの交信を

期待してCQを出しました。

まずCallして来たのは深いQSBを伴ったHL2KV。そして、その次に呼んできた局は、HL2KVにも増してQSBが

早く深く、フルコールが取れない。 ?A7??・・・

「おや、北日本が開いてきたな、久しぶりにたくさんのJAと交信が出来るな」と思いつつQRZ?

何と確認出来たCallは、AA7CQ。

続いてK7ONもCallして来て、その後はJAから怒涛のパイルアップ。

結局この日は、トータル2局のWとの交信となりました。

これが、当局の知りうる内では、5年半の駐在の中で唯一の6mでの北米のオープンとなりました。そし

て、少なくともこれは6mでの9M2から北米の1st QSOで、Wからも1stの9M2だったはずです。


残念ながら、このオープンは一瞬の出来事でして、9M2からは他の誰も北米とは交信しておりませんでし

た。


後から振り返って見ると、このWとの交信成立がキーだったように思います。

ヨーロッパ方面と違い、北米・南米方面にはロケがFBであった事も幸いしたように思います。


余談ですが、この日はおりしも当局の9M2滞在の中で、当局の両親が初めてマレーシアに遊びに来てくれ

る日で、夜の到着を前に朝から特別な緊張感の中でBandをワッチしておりました。 この北米との交信

は、本当に両親からのプレゼントだったのかも知れない、と今でも思っています。二人とも無線はやりま

せんので、特に話はしていませんが。

その夜は、豪勢な祝宴を持った事は言うまでもありません。

 

 


6.間に合うか!?南米

さて、ここまで来るともう狙うしかありません。

深夜の南米のオープンに対応する為、当時当局がアパートにいる起床時間帯のみに運用していた6mのビー

コンを、就寝中にも運用するようにしました。 時間を限定していたのは、雷対策の為でした。この地域

は世界でも有数の雷多発地帯です。


しかし、何も起こらないまま時は過ぎ、2001年秋に一時的に再び盛り上がったCondxも、2002年春には再

び下降傾向を示すようになりました。

ある程度の頻度で入感していたJAやヨーロッパも、オープンの頻度がめっきり落ちて来ました。

いかに南米は交信実績があると言っても、自分も仕事の出向で駐在している身、いつかはJAに戻されてし

まいます。

「はたしてこのサイクル中、自分が9M2にいる間に、チャンスは来るだろうか?」と疑心暗鬼になったの

もこの頃でした。ここまで来て南米を残したまま帰国する事は、一生の後悔になります。もしその時は、

次のサイクルに自費で9M2に来てでも6m WACは完成させよう, と最悪の場合の事を真剣に考えたのもこの

時期でした。


そして、「最後のチャンスかも知れない」と覚悟した2002年春、DXシーズンも終わりに近い3月29日の未

明。この時期は、現地は乾季から雨季に移行するタイミングで、深夜にも雷が多発するようになってきた

為、そろそろ就寝時のビーコンを秋まで中断しようと考えていた矢先の事でした。

その夜、なぜか当局はいつもより早く、28日の午後10時過ぎ(ローカルタイム)に翌日の仕事に備える為

に就寝していました。

ビーコンはセットしたままです。

ご存知の様に、人の睡眠は深い眠りと浅い眠りを繰り返します。それはちょうど、浅い眠りのサイクルに

入っていたと思われる29日の午前2時ごろ(ローカルタイム)、当局の耳には、ベットルームの隣の部屋

にあるシャックからの自分のビーコンのサイドトーンが、かすかにまどろみの中で聞こえておりました。

ところが、そのサイドトーンとは明らかに異なるもう一つのトーンが、インターバルに弱々しく聞こえて

いるではありませんか!!

当局は飛び起きました。

そしてシャックに飛び込みました。

「もしJAからのCallだったらどうしてやろうか!この深夜に!」(失礼!)と思いながら。そして、僅か

な期待もいだきながら、眠けまなこで操作したパドルで送り出した「QRZ?」に応答してきたのは、何と

PY7ZZ Fredでした。時間は午前02:08ローカルタイム。この瞬間、9M2初の6m WACはworkedされました。


実は、Fredはその後の2002年の秋、同じ時間帯に当局のビーコンを見つけてCallしてくれています。しか

し、この時当局は全く気づきませんでした。完全に熟睡しておりました。

結局、当局の知る限りは、当局の絡んだ南米のオープンはこの2回のみだったようです。


このFredとの交信は、PY側にとっても史上初めての9M2との6mでの交信として、WWW.50MHZ.COM のPY FIRS

T LISTに、両局のコールサインと共に記録が掲載されています。栄誉な事であります。

「We made a history !」と、Fredも喜んでくれた記念すべき交信でありましたが、最後のQSLのコンファ

ームで若干のトラブルがありました。 当局からSASEをFredに送ったのですが、いっこうに帰ってきませ

ん。2通目を出してもなしのつぶてです。mailで問い合わせをした所、「もう返信したよ」との事。しか

し、しばらく待ってもやはり来ないので、再発行を依頼しました。

実は、9M2は郵便事情が決して万全とは言えず、時々郵便物がLostします。料金は安いのですが、安いな

りの内容, と言う事でしょうか。

しかし、よりによってこの大事な郵便が・・・


この為に、WACのworkedから申請まで半年強かかりましたが、2003年初, JARLを経由して、IARU発行の50M

Hz CW特記付きのWACを無事受領するに至りました。

現地9M2でライセンスを受けてから約4年半、JAへの帰任の10ヶ月前の事でした。

 

 


7.プロジェクト9M2

9M2初の6mWAC完成までのストーリーを紹介させていただきましたが、勿論この出来事は、簡単に達成され

た訳ではありません。

当局は以前にJAでも6mWACをworkedしていますが(未申請)、9M2での6mWAC完成の難易度たるや、とてもJ

Aの比ではありませんでした。


社命により見知らぬ外地に飛び、達成に大きな困難をともなうプロジェクトを任される。

途上には数々の障害、状況の悪化、迫り来るタイムリミット、そして大逆転劇。まさにこれは、自分にと

っての、海外勤務の募集に手をあげた時からの「プロジェクト9M2」だったのかも知れません。 「ETUさ

ん、やりましたね。」と、国井アナウンサーから声がかかりそうです。Hi。


冗談はさておきまして、確かにここまで来るには本当にいくつもの偶然がありました。

(1) 海外にも事業所を持つ会社に勤務していた事。

(2) 赴任地が直前で9M2になった事。

(3) 赴任のタイミングがサイクル23のピーク時であった事。

(4) たった一度しかなかった北米とのオープンをものに出来た事。

(5) 深夜の南米のオープンに気づいた事。

これらのどの一つが欠けていても、なし得なかった事です。


また、多くの方々からの協力と励ましをいただいた事も、決して忘れてはなりません。

今回の執筆に際し、情報提供をいただいたJE1JKL中村OM。

最後の南米とのQSOの際に、オープンを知らせて下さったJG3LEB東口OM。

そして、現地でのライセンスの取得からDX情報まで、何から何までお世話になってしまった9M2TO出雲OM

の各氏をはじめ、お世話になった全ての方に、あらためてこの誌上をお借りして、お礼を申し上げさせて

いただきます。


当局は9M2を去るにあたりまして、数セットの無線機器をローカル局に寄付してまいりました。9M2現地に

はハムショップが無いからです。 その中には、まさしくWACを完成した時に使用していた、思い出のト

ランシーバー・アンテナも含まれます。そして、それらのセットの新しいオーナーとなったローカル局達

が、次のサイクルにかけて6mでも活躍してくれれば、と願っております。


最後に、世界各地に駐在するJAオペレーターの皆様にも、一層の活躍をお祈りして、結びとさせていただ

きたいと思います。 ありがとうございました。


de:JI1ETU (also 9M2/JI1ETU)

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